渡辺一史さんのノンフィクション『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』を読みました。
筋ジストロフィーの鹿野靖明さんが、自らボランティアを集め、病院ではなく自宅で生活をする道を選んだお話です。
まず、重度訪問介護という制度がなかった時代に、自分でボランティアを集めるというバイタリティがすごい。
集まるボランティアの人たちもすごい。中には有償ボランティアの人もいましたが、ほとんどの人たちは無償です。
評価が高く、映画化もされている作品ですが、私は正直「えぇ…?」と思ってしまいました。
鹿野さんのモラハラ
鹿野さんはわがままで、気に入らないことは口に出して言ってしまうので、ボランティアの人に「帰れ!」と言うことも度々あったそうです。
そう言われても、引き続きボランティアに来る人もいれば、そのまま来なくなった人もいるそうです。
私は即効で行かなくなりますよ。ええ。
鹿野さんとボランティアの人たちは、ノートでコミュニケーションを取っていたのですが、そのノートにも鹿野さんは、
「精神状態が不安定です。やつあたりされても怒らないで下さい」
「聞かれたことだけに答え、意見に反論するようなことはノイローゼの原因となるのでやめて下さい」
と強気な態度。
やつあたりされても怒るなって…モラハラですね。
さらにその上、鹿野さんはボランティアの女性の1人とお付き合いしていたのですが、その女性に対して「遅えんだよ、バーカ!」「さっさとすれ! このやろう」と暴言を吐くことがありました。
その女性のいれたお茶を「まずーい!」と吐き出すこともあったそうです。
無理です。
なんか、めっちゃ上から目線ですよね? 障害があるというコンプレックスの裏返しなんでしょうか?
ボランティアで接する分にはいいと思んですよ。それに耐えられる人、それでも続けたい何らかの理由がある人が続ければいいですし、無理な人はやめたらいいんですから。
でも、家族がこんなんになって、毎日のように暴言を吐かれたら、こちらの精神が持たない気がします。
そもそも、人工呼吸器をつけてまで生きるって、精神的によっぽど強くないと難しいんじゃないでしょうか。
そこまでして生きたいというバイタリティと勇気はすごいと思いますけど、自分がしんどいからといって「周りの人にモラハラをして当然」という態度はどうなんですか?
ボランティアのメンタリティ考察
無償ボランティアの人たちには、たとえが適切ではないかもしれませんが、何かしらの新興宗教に属している人と同じようなものを感じました。
何か今の自分に満足していない人、今まで漠然と人生を生きていて何か変えたいと思っている人、自分の存在意義を見つけたい人が、ボランティアを始めてみたという印象です。
そういう人たちは「帰れ!」と言われても、あっさりやめません。なぜなら、ボランティアをすることで、自分の生きる意味や自分の価値を確かめたいからです。
たとえば、学生ボランティアの内藤さんは、ボランティアを始める前は「自分に対する劣等感、コンプレックスのかたまり」だったそうです。
そんな内藤さんは、ある日、鹿野さんから「帰れ!」と言われてしまいます。
ただ、内藤さんはそれでもボランティアを続けることを選びました。
ボランティアを続けた理由について、内藤さんはこう答えています。
「(中略)自分の中で『やめる』っていう選択自体、してはいけないっていうのがあったんですよね。やめるっていうことは、昔のダメな自分に戻るっていうことだったんです」
つまり、内藤さんはボランティアをすることで、自分に対する劣等感やコンプレックスを克服し、自分の存在価値を見出すことができたのはないでしょうか?
だからこそ、ボランティアをやめることは選択肢になかったのです。やめたら、もとの自分に戻ってしまうと恐れたからです。
目的が何であれ、ボランティアをすることは尊いことではあります。
ただ、鹿野さんの場合は、このような自己実現的な目的意識を持つ無償ボランティアたちの存在があって初めて成り立つケースではないでしょうか?
すべての障害者と介護者の関係には、一般化できないと思います。
今の自分に満足している人や、自己肯定感が高い人は、無償ボランティアを続けることは難しい気がします。
健常者はどこまで許すべき?
鹿野さんも、人工呼吸器をつけての生活は辛かったでしょうし、いつ自分が死ぬかわからない恐怖もあったでしょう。
だからといって、モラハラを受け入れろという態度には、疑問に感じてしまいました。
障害があるからといって、健常者が何でも許して受け入れるのは違うと思います。そんなのは、ただの奴隷じゃないですか?
極端な例かもしれませんが、精神障害者に身内が殺されたときに「犯人は精神障害者だから仕方ない」と受け入れられる人がいますか?
障害があっても社会のルールを破ってはいけませんし、人にパワハラ・モラハラ・セクハラをしてもいけません。
そもそも、気管切開を選べば、自分が肉体的・精神的に苦しい思いをするのがわかりきっているじゃないですか?
気管切開せずに、そのまま亡くなることもできたはずです。鹿野さんはどちらも選べました。
自分の選択なのに自分が辛いからといって、八つ当たりされても怒らないでって…私の心が狭いのかもしれませんが、自分の選択に対して少し無責任だなと思いました。
もちろん、意に反して八つ当たりしてしまうことは健常者にもあるので、八つ当たりすること自体を批判しているわけではありません。
病気で辛いときに、八つ当たりしてしまうこと自体は仕方ないと思います。
でも、それを病気の当事者に、当たり前のことだと思わないでほしいですね。
多くの介護者は八つ当たりされても許してくれると思いますが、許すかどうかを決めるのは介護者のほうであって、病気の当事者ではありません。
近年のニュースを見ていると、障害者の一部の方は「許してくれて当たり前、何でも完璧にやってくれて当たり前、全部言うことを聞いてくれて当たり前」と感じていらっしゃるように見受けられます。
が、当たり前ではありません。
美談ではない
鹿野さんの話は、まるで美談のように取り上げられていますが、私は美談とは言えないと思いました。
なにしろ、たくさんのボランティアがやめています。中には、心が傷ついた人もいたでしょう。
鹿野さんの情緒が不安定な時期は「ボランティアのひと言ひと言に瞬間湯沸かし器のように腹を立てては、気に入らないボランティアを次々とやめさせていった」とあります。
また、鹿野さんの彼女への態度がひどかったため「それに抗議するようにボランティアをやめた人が何人もいた」と書かれています。
鹿野さんの彼女も、結局モラハラに耐えられず、ボランティアをやめてしまいました。
鹿野さんの立場からしたら美談でしょう。24時間の在宅介護が実現し、亡くなるまで生活を続けられたので、思い残すことはないと思います。
ただ、やめていった多くのボランティアたちの心情を考えると、美談で済ませてはいけないのでは? と思いました。